タグ別アーカイブ: ことばの栞

説教の要約とまとめです

ことばの栞 一覧(ローマ人への手紙)

20231112
ローマ 16:17-27
「つまずきを警戒せよ」

20231029
ローマ 16:1-16
「すべての教会がよろしく」

20231022
ローマ 15:22-33
「計画の共有」

20231008
ローマ 15:14-21
「ささげものとなるために」

20230924
ローマ 15:1-13
「心を一つにするために」

20230910
ローマ 14:13-23
「霊的成長の追求」

20230903
ローマ 14:1-12
「生きるにしても死ぬにしても」

20230827
ローマ 13:1-14
「光の武具を身に着ける」

20230820
ローマ 12:1-21
「神に喜ばれる信仰生活」

20230806
ローマ 11:25-36
「満ちる時が来るまで」

20230723
ローマ 11:1-24
「ねたみを起こしてでも」

20230716
ローマ 10:1-21
「信じて義、口にして救い」

20230709
ローマ 9:19-33
「憐れみの器」

20230702
ローマ 9:1-18
「憐れみによるもの」

20230618
ローマ 8:31-39
「圧倒的勝利者」

20230604
ローマ 8:18-30
「御霊のとりなし」

20230528
ローマ 8:12-17
「神の子とされる御霊」

20230521
ローマ 8:1-11
「いのちの所属」

20230507
ローマ 7:14-25
「心とからだの不一致」

20230430
ローマ 7:1-13
「罪を罪とする戒め」

20230423
ローマ 6:12-23
「罪の奴隷と義の奴隷」

20230416
ローマ 6:1-11
「新しいいのちに歩む葬り」

20230326
ローマ 5:12-21
「一人の人によって」

20230319
ローマ 5:1-11
「和解への希望」

20230312
ローマ 4:13-25
「約束実行力」

20230305
ローマ 4:1-12
「神に義と認められる幸い」

20230226
ローマ 3:21-31
「神の恵みによる義」

20230219
ローマ 3:1-20
「律法と罪の意識」

20230212
ローマ 2:17-29
「心の割礼」

20230205
ローマ 2:1-16
「忍耐と寛容の食卓」

20230129
ローマ 1:18-32
「恥ずべきものに引き渡される神」

20230122
ローマ 1:16-17
「福音信仰宣言」

20230115
ローマ 1:8-15
「伝えたい福音」

20230108
ローマ 1:1-7
「選び出されたしもべ」

ことばの栞 20230108

「選び出されたしもべ」
 2023年の礼拝ではローマ人への手紙を読み進めていきます。この手紙はパウロが紀元57年にローマにいるキリスト者たちに向けて書かれた手紙です。1~11章は信じるべきものについて、12~16章は信じる者の生活と態度についてが中心に書かれています。

 キリスト者としての土台を知るうえで大きな手掛かりとなるこの手紙の始まりは、しもべとして選び出されたということでした。パウロは神の福音のために選びだされた、イエスキリストのしもべであると自分を紹介します。
 加えて、ローマの信徒たちに向けて、あなたがたも召されてイエスキリストのものとなったと語ります。キリストのものとはその所有物である奴隷、すなわちしもべとなったということです。

 パウロだけでなく、信徒たちもまたしもべであるならば、それぞれの役割はどのようなものでしょうか。パウロは福音のために使徒として召されましたが、私たちも同様に、福音に仕える使命があります。
 この福音の中心でありすべてであるのが、イエスキリストです。キリストが十字架に死に、3日目によみがえられたことによって私たちに赦しと救いを与えられました。この福音の出来事とその結果を受け入れることがキリスト者の信仰であり、救われた聖徒としての歩みが与えられています。

 神はパウロと同様に、私たちが信じる前から予め福音のために選び出され、しもべとなるように働かれています。私たちも自分の生活の傍らで福音に時間を割くのではなく、生活全体が福音に仕える者となっていく時、福音の恵みに満たされた幸福を感じるでしょう。

ことばの栞 20230122

「福音信仰宣言」
 「福音を恥としません」と宣言したパウロにとって福音とはどのようなものだったのでしょうか。恥じる感覚の対極にあるものは誇る感覚と考えることができます。恥じる感覚と誇る感覚の根底にあるものの違いを知れば私たちの福音に対する態度も変わるかもしれません。

 パウロは、福音は神の力であり、人間はそこに貢献することができないと捉えています。一方的に罪人に与えられた恵みであり、この福音を受け入れなければ信仰として始まらないと考えていました。

 この福音の内に啓示されているものが神の義です。義とは正しさとも訳されますがユダヤ人たちの間では律法に照らし合わせて間違いのないことが義と考えられ、これを守ることが信仰とされてきました。
しかしパウロは義とは獲得するものではなく、信仰によって与えられるものだと主張しています。信仰は律法に沿った行為ではなく、神との関わりの証であると語ります。

 パウロは福音が単なる歴史的事象で無機質なものではなく、福音を成し遂げた相手が存在し、自分のために与えられた関係があることを受け入れていました。その上で信仰は、自分のいのちが失われ、そこから救われた状態にあり、救ってくださった方と関わりを持ち、その救いの道程を歩むことであると、自らの経験を含めて示しています。

 信仰は神との信頼関係、忠誠を意味する言葉であることから、信仰は神に対する忠誠を、歩みをもって証しするものであると語ります。神との二人の関係に留めておいてはいけません。それを他者に伝えて初めて証となるからです。福音を受け入れるだけでなく、福音を受け入れ神との関わりを示す者となりましょう。

ことばの栞 20230129

「恥ずべきものに引き渡される神」
 人を創造し、愛し、救い、赦される、あわれみ深い神は、なぜ人を恥ずべきものに引き渡され、悪を行うことを許されるのでしょうか。

 その原因は人間が神に怒りを起こさせたからです。人は神を神としてあがめず、愚かになり、神が本来受けるべき栄光を他のものへと替えました。そして神の真理までも偽りのものとし、神を知ることさえも価値を認めませんでした。

 ユダヤ人たちは律法を大切に守ってきていたはずです。しかし、そこには律法を順守することで優位に立つこと、自分自身の判断を律法化してしまう現実がありました。

 自分自身の思いを優先させたことによって、神との正しい関係、すなわち義は失われ、神にささげるべきものを他のものへと移してしまったのです。その結果、神の怒りを起こしました。それは、どんな行いがいけないのかという具体的行為の善し悪しよりも、自分を律法化する姿勢の積み重ねによって引き起こされたものでした。

 神は怒りによってこのような人間を汚れに、情欲に、無価値な思いに引き渡されました。神を選ばなかった者は別のものに引き渡されることになるのです。そこにあるのは悪です。

 悪に引き渡されることによって聖なる宮として創造された体は辱められ、キリストと一体となるべき関係は崩され、救いの道は閉ざされ、死へと導かれてしまします。

 神が人間を悪へと招き、引き渡したのではありません。人間が神を認めず拒んだ結果、悪の力に引き渡されることになったのです。自らの罪を神の責任だと転嫁させる姿勢がまさに愚かなことなのです。