ことばの栞 20230709

「憐れみの器」
 神は等しく愛され、憐れまれるお方であるのに、なぜ私たちはこのような状況で苦しまなければならないのかと考えたことのある人は多いのではないでしょうか。異邦人たちが多く救われていく中、神の選びを誇るユダヤ人たちが造られた器としての価値について言及します。

 イスラエルの民の中には、「なぜ神は私たちに救いを与えず、異邦人を救うのか」と神に思いをぶつける人も多くいたことでしょう。パウロはこれに対して、「陶器が陶器師に向かって『なぜこのように造ったのか』と言えるだろうか」と答えます。

 陶器は確かに価値の違いはありますが、それぞれ使いどころが違います。日常使いとして用いられる器もあれば、上客が来た時にだけ使う、とっておきの器もあるのです。その器を使う回数はわずかです。
 しかし、それらを選ぶのは器ではなく造った者であり用いる者です。コーヒーカップとして優雅な器になりたいと、鍋が言っていたとしても、それをかなえることはできません。

 イスラエルはどう用いられるかではなく、自らの価値ばかりを強調し、追い求めていました。しかし、神から与えられた役割を忘れた結果、バビロン捕囚に遭い、国は滅ぼされました。しかし神の憐れみによって人々は残され、改めて取り置かれることとなりました。

 造られた器を大切に保つ必要はありますが、器ばかりに目を奪われると、道の石につまずきます。器を守るのではなく、器が用いられる、使いどころへ備えられた道をしっかりと見て、耐え忍びつつ、歩む者となりましょう。私たちは神に背いたにも関わらず、滅ぼされず、神の子とされ、神の栄光を示す器とされた憐れみの器なのです。