ことばの栞 20230806

「満ちる時が来るまで」
 1~11章と12~16章で大きく内容が分かれているローマ書ですが、この箇所は前半部分の最後にあたります。キリストを信じる信仰によって救われることを知り、異邦人の地に福音を伝え、救われていくのを見て来たパウロにとってイスラエル人たちに伝えたい思いはどんなものだったのでしょうか。

 救われたいけれども、自分たちの思い描いた形で救われたいイスラエルと、イエス・キリストに対する信仰によってすべての人を救いたい神の思いのギャップを、パウロは強調しました。
 出エジプトの際のファラオの頑なさのようにイスラエルが頑なになっていることで、神の救いは足止めされたのではありません。新しい道、すなわち異邦人への救いを通して再び恵みが満ちる時まで待たれておられるのです。

 どんなに不従順でも神の計画と働きは取り消されることはなく、神が示された賜物も召命を、今も私たちに果たしてくださっています。
 その上でイスラエルの民にも異邦人にも私たちにも求めていることは、神のあわれみを受ける者となることです。神の救いは報酬として受け取ることはできません。また、私たちがその救いの役割の一部を担うこともできません。

 私たちにできるのは、神のあわれみを受け、神の救いの約束を受ける信仰を告白することだけです。人が救いを受けずに自立することを神は求めておられません。神が救いとあわれみの主体者だからです。
 砂浜で自立しようとしていては神のあわれみの波にひたることはできません。自立ではなく、神の波に飛び込み、身を委ねましょう。