光テラス No.122

8月16日
 娘がつかまり立ちをし始めました。しっかりと立つことができないため、つかまって歩くのにはまだ時間がかかりそうです。
 初めて私が物につかまって立とうとした様子を目撃したのは、一緒にお風呂に入った時のことでした。ベビーバスに入っていた娘にゾウさんの形をしたジョウロで遊んだ後、大人用の湯船の端にそのジョウロを置きました。たくさん遊び、お風呂を出る前に娘の体を流そうと私は桶に手を伸ばした。

 すると娘はまだ遊びたかったのか、ベビーバスの端に手をついて、体を押し上げようとしていたのです。そして胸のあたりがベビーバスの端まで上がってくると、今度は手を湯船の端まで伸ばし、両手で湯船の端をしっかりとつかみ、立ち上がりました。
 思わず「立ったよ、立ったよ!」と湯上りを待っている妻を呼び、初めて娘が立ち上がる姿を見ることができました。その間も娘はなかなか手の届かないジョウロに一生懸命手を伸ばしていました。

 ジョウロを取ってあげて渡すと、何事もなかったかのように、娘はベビーバスに浸かり、再び遊び始めました。私はこの様子を見ながら、娘の執念と力の成長を感じていました。
 娘にとっては立ち上がることが目的ではありませんでした。目的はその先にありました。だから立ち上がることに感動も固執もしません。成長は目的を達成するために必要な過程だったのです。

    そして、子どもの手を取って言われた。
    「タリタ、クム。」 訳すと、
    「少女よ、あなたに言う。起きなさい」
    という意味である。
                マルコ5:41