光テラス No.76

9月29日
 一週間に2組のゲストを迎える、忙しくも恵みの時間を過ごしました。前半の友人は水曜日のプランターでの証をし、前回の光テラスで内容を記しています。後半の友人たちは日曜日の礼拝に出席しに来てくれました。どちらも信仰の交わりが豊かなひと時でした。
 しかし、思いがけない出来事が起こりました。前回の光テラスを読んだ方が、友人にその話を聞かせてほしいと頼んでいたのです。私は慌てて「彼らはプランターの証の人と別人なんです」と答えました。
事情は理解してくれましたが、話を聞いてみると、せっかくの機会で、私も証を聞けるのを楽しみにしていた、ということで急遽、信徒主催の証会が設けられることとなりました。
 少し外から眺めていると、友人の証に呼応するように、それぞれの信徒が自分の証をし始めていくではありませんか!そしてさらに深く信仰のことや生活について尋ねている人もいました。
 私はまさに信仰の交わりを目撃していたのです。証によって励まされ、養われ、主を求める人々が起こされていったこの機会は、パウロが町々の会堂が議会で、自らが経験したこと、キリストについての知識を伝えていった宣教と重なるものがありました。
 「証」はクリスチャンなら誰もがいつでも携えている最良の交わりの道具です。証を求めることは神を求める者の特権であり、証を語ることは神を確信した者の特権です。神を求め、神を見出すことができる力を、与えられていることを私は主に感謝しました。

    それは、神を求めさせるためです。
    もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。
                            使徒の働き17:27