光テラス No.80

10月27日
 記念会の奉仕を相談する中で、奏楽の奉仕者が誰かいないかとなり、妻のお腹の様子も気がかりなため、「私がやります」と申し出ました。
 岡山に来てからはほとんどピアノに触っておらず、不安もあったのですが、準備時間もある程度あるため、引き受けました。主任牧師も、できなくても大丈夫と声をかけてくださいました。
 しかし、なかなか練習の時間を確保することができず、前日練習で妻にチェックをしてもらった時に、緊張と焦りから手が全然動かず弾けませんでした。その様子を見かねて、妻は私に「私のお腹の調子は落ち着いているから、私がやろうか。」と声をかけてくれました。妻への配慮と思い、自分がやると言った結果、妻に気を遣わせてしまった自分に情けなさを感じました。
 当日、直前にはなってしまったけれども言わないわけにはいかないと思い、主任牧師にこのことを電話で伝えました。そして電話先から怒りと悲しみを含めた声で「先生、言ったじゃないですか。できなくてもいいって。でももっと早く相談してもらわないと、準備をしている人たちに迷惑もかかるし、配慮の心を踏みにじることになります。」
 その言葉を聞きながら、私は自分の犯したことの重大さに気付かされました。配慮とは相手に何もさせないことではなく、相手の心境をおもんぱかり、心に安らぎが与えられるために気を配ることなのだと反省し、相手の平安を壊すような振る舞いがないかどうかを見る目を持たなければならないと心に刻みました。

    何をするにも、人に対してではなく、
    主に対してするように、心から行いなさい。
                 コロサイ3:23