光テラス No.47

3月10日
 学びの後におしゃべりをしていた時のことです。実家から遠くの家族にお米を送ることについての話題が挙がりました。私の実家が仕出し屋でお米を買っていることや姉夫婦が農家ということもあり、気軽に頼んでいいよと声をかけてもらうのですが、毎回送ってもらうのもなんだか申し訳なく感じるという思いを話していました。
 すると、その場にいたある方から、「どんなお米を送ってもらっているの?農薬とかはどうだい?」という質問が出されました。今まで考えてもいなかったのですが、「商品としては出しにくくても(粒の大きさが足りないものや形が整っていないなどでも)いいものを送ってくれていると思います。」と答えることしかできませんでした。
 そこに、別の方から、「そりゃ安全でいいものを送っているよ。」と答えが飛んできました。彼はまさに農家としてお米を作っている方でした。「家族に送るものなんだから安全なものを送るし、いいものを送りたいって思うものだ。」という言葉を聞きながら、私はとても大切なことを忘れていたことに気づかされました。
 私はお米をもらうことに負担や感謝を感じていましたが、本当にもらっていたものは家族からの愛情だったのです。お米はその気持ちの現れです。それなのに、その形と手段という表面ばかりに気をとられていて、大切な中身を疎かにしていました。
 翌日、実家にビデオ電話して感謝を伝えると、信仰で悩んでいる母がそこにいました。私は今度こそ「母」を見ることにしました。

    彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、
    パンを裂き、祈りをしていた。          
                       使徒2:42