光テラス No.120

8月2日
 ついに教会のある赤磐市の在住者にもコロナウィルス感染者が発生し、普段よりも緊張感をもって礼拝が行われました。これまでは全国各地の感染や第二波の報道を見ても、ここはまだ大丈夫という気持ちも幾分かありましたが、気を引き締めて、礼拝に臨みました。
 礼拝後、挨拶をしながらも足早に帰路に向かう出席者を見ながら、礼拝を守る責任を感じながらも、礼拝を守ろうとしている方々に励まされました。様々な人が手を伸ばしやすいコーヒーコーナーも片付けられ、教会で感染者が出ないように最大限、気を遣っていることも見受けられました。
 教会で礼拝を行えるように対策する人もいれば、ネットで礼拝をささげる決断をした方もいらっしゃいました。教会はできる限りの対策を練って、礼拝堂とインターネットの環境を整えたいと思います。

 しかし私にとって、礼拝を守る責任は単なる環境を提供する責任で収まりません。礼拝にとって要である説教の奉仕があるからです。このような時期だからというわけではありません。日曜日の礼拝の度に、説教は語られます。これまでは時間を分母にして、どれだけ時間を割けるかを考えていました。それが、この礼拝後にはどれだけのリスクを賭けて説教を語るかということを問われていると感じました。
 説教や信仰についても危機管理と緊張感が欠けてしまうと、危機が訪れた時に、倒れて離れてしまうことになりかねません。その緊張感を先に味わったときに、信仰も訓練されるのだと気づきました。

    主の使いは 主を恐れる者の周りに陣を張り
    彼らを助け出される。
                  詩篇 34:7