「心とからだの不一致」
私たちにはしたくてもできないこと、したくないと思っていてもしてしまうことがあります。そんな時に「私のうちに住んでいる罪のせいです」と言うと、都合の良い言い訳だと帰されてしまいます。
ただ、この悩みはキリスト者全員に共通する葛藤でもあります。罪を犯さずに聖く生きたい、神の前に正しいことだけを行いたい、それでもできずに罪を犯してしまうジレンマは離れることがありません。
パウロも同じでした。義の下で生きたいと願う霊的な自分と、罪の下でしたくないことを行う肉的な自分がいることに気付き、肉的なものから離れたいと願ってしましたが、善が自分のうちに住んでいないことを悟りました。
自分のうちに善があるなら罪を犯すはずがないからです。善ではなく、悪が存在し、霊的な願いとは関係なく、心や思いや行動に働きかけ、とりこにしてきたことを受け入れ、霊的な心と肉的なからだの不一致を認めました。
その上で、パウロは自分が罪の律法に敗北者として、悪を避け、なかったことにするのではなく、キリストにその状態での救いを求めました。そしてからだが悪にとりこにされつつも、キリストとともに生きたいと願うその信仰を通して、パウロが罪に定められない確信に至ったのです。
この地上に生きる限り、私たちが完全に罪を避けることはできません。しかし、信仰によってキリストを通してパウロが罪に定められなかったように、私たちも心とからだの不一致を受け入れ、キリストに救いを求め、ともに歩むなら、罪に定められることはありません。