「一人の人によって」
海外に行くと日本人を意識し、日本人としての行動をわきまえようとしたり、教会から離れてクリスチャンのいない職場や学校へ通うと、あたかも自分が代表者のような意識が起こされてきます。しかし、「私」は本当に代表者なのでしょうか。
一人の人であり人間の代表者であるアダムが罪を犯したことによって罪が世界に入り、死が広がりました。私たちは律法によってその罪が罪であることを知り、認められるようになりました。
そのため、アダムを諸悪の根源のように考えてしまいがちです。しかしパウロはアダムが罪人のひな型ではなく、一人の人によって人類全体に影響を及ぼし、支配する方についてのひな型だと語ります。その方こそキリストです。キリストが愛の根源であることを強調します。
また、私たちに与えられた賜物は罪を犯して獲得したものではなく、神の許しの中で与えられた恵みの賜物です。アダムの違反行為を通してすべての人が不義と定められたように、キリストの義の行為によってすべての人が義と認められました。律法は死の支配のためではなく、その先にあるキリストによる義の支配を強調させるものです。
そして私たちは罪人の代表者でも救いの代表者でもなく、救いを受ける者のうちの一人であることを認めなければなりません。救いの代表者として何かを与えようとするのではなく、ともに救いを受ける者の一人として同じ側に立ち、寄り添う者となりましょう。
律法だけに目を奪われ、罪と死にとどまっていてはなりません。罪が増し加えられるところには恵みも増し加えられるからです。主は罪ではなく、来るべき約束に私たちが目を向けることを願っています。